先ほどの投稿で、12月10日までお届けしておりました慈愛のエネルギーのご報告を書かせていただき、感想フォームを添付しておきましたら、11月末に行いましたレムリアの光の柱をおろす無料ワークをお受けくださった方からのご感想が届きました。
PC・スマホ共用感想フォーム ☆
携帯電話用感想フォーム
掲載の許可をいただきましたので、ご紹介させていただきます。
Hさま
気負いなくワークを受け取れたように感じました。
なみさんが見えたとたん、お人柄でしょうか、優しいベールに包み込んでゆくような、柔らかな虹?色の光が、ふわぁ〜〜と降りてきました(^^)虹色龍にも見えたり?
優しい光でしたので、身構えることなく、自然に心地よく受け取ることができました。ありがとうございます?
色々な事に対して、敏感になってきました。いち早く気付くことが出来たりと、何となく心にも余裕ができて、優しく対応出来るようになってます。
とても美しい感想が届いて恐縮すると同時に、読ませていただいている間に、自分の中のかたくなさの一つに気がつくことが出来ました。
『優しい』という単語を使ってくださっているのですが、私のエネルギーを感じてくださった方からこのようにお声をかけていただくことに、何だか申し訳ない気持ちになることが続いていたのでした。
人間としての私個人の人格と、ワークをさせていただくときのエネルギーの性質はある程度関連はあるにしても、全くのイコールではない。というのは、頭では理解していたつもりでも、私のワークへのご感想をいただく度に、私のどこからこんなに美しいモノが出てくるのだろうか、と首をかしげてしまうことが続いておりました。相手の方の受け取り方を尊重しなくては、とは思うのですが、自分に大丈夫大丈夫、と言い聞かせる様な感じ。(ちょっと大げさですが。)時に、過剰反応の様に動揺してしまうのです。
先日ラジオで耳にした自分の評価を正当に受け取れない方の症候群があると知り、名前がつくほど一般的な感情であることにほっとしたのですが、それでもどこか後ろめたさがつきまとっていました。
自分の中の『優しくない』部分に目をつむっているのではないか、『優しい』と思われたくて、過剰に優しい自分を演出しているのではないか。そんな自問自答をするのはしょっちゅうです。
なんだか、言葉にすると過剰反応であることが明らかなのに、そんなことを思うなんて、の自罰癖が顔を覗かせて『しー』っと思いを封じてしまうので、自分でもこの部分をあまり見つめない様にしていたようです。
今回、こうしてこの思いを見つめることが出来て、私という人間と私が行うワークというモノを一つ離れた視点から感じることが出来る様になりました。ご縁あって、ワークをどなたかに行わせていただいたとき、もうそのワークは私の手を離れて、自由に受取っていただく。お手伝いさせていただいた側としての自覚は必要でも、過剰に責任を負おうとするのは、相手の方への過干渉になってしまう。という側面でした。
過剰な萎縮癖は何度か反省文のように、このブログ内で、綴らせていただいていますが、まだ残っていたか!という感じです。あと、過剰に『最善を』と願う思いもあるようで、これもコントロールにつながってしまうなあと反省したのでした。
でも、今気がつけてよかったです。もっと私の中から手放せるモノがある!
個々にご紹介できていない感想もたくさんいただいています。短い一言からもドキッとするほど深い発見があったりして、いつも嬉しく拝見させていただいております。少し前にいただいたご感想でも、こんな風に、学ばせていただいたことをブログに書かせていただいても良いのかしら。。ドキドキ。
どんなときに、どんな風に身構えて力んでしまうのか、いただいた感想から自分自身のことが見えてきて、少しこだわりを手放すことが出来ました。というご報告でした。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。