2018年08月17日

手から離れるときに

15日の朝、一枚のメモをゴミ箱に捨てました。ネットでたまたま見かけた即席漬けのレシピだったのですが、手から離れてゆくときに不思議な感覚があったのです。

褒められたくて、美味しいねって言って欲しくてつくった料理が今一つだったというだけのことなのですが、いつもと違う感触だったので、あれ?と新鮮でした。

実は?分析好きの私。自分が体感したエネルギーなら、誰はばかることなくたぐりよせられます。さっと感じたのは「愛」でした。あれ、普通に考えたら、執着とか自己顕示が先に来るのでは?と思ったのですが、なぜ愛の言葉を先に感じたのか。その日の午前中に一人の時間を持つことが出来たので、その時のことを改めて思い返してみました。
感情とそれを言語で定義することとは別物と分かってはいても、自分の中に正体不明の感情があることにどことなく居心地の悪さを覚えてしまう自分がいます。感情に色があるとしたら、よく目立つ色とせいぜいもう1,2色位まで追いかけて、ハイ完了!で流してしまうことがほとんど。というか普段はそれ細木に求めないことがほとんどです。

でも、今回は私の変化にとっての節目となる感情だったようで、私の心のアンテナに引っかかってくれました。単純作業が続いて、思考先行で動いていなかったのがよかったのかもしれません。

普段はこんな感情を「執着」と片付けてしまうことが多いのは、「執着」というレッテルを貼って整理しておくと自分のためになるからだなあとおもいました。私は自分の「執着」に気づける人間である、という自己認識をサポートしてくれるし、まだまだ執着を抱えたままの「ダメな」人間だ、と思い上がりを避けるきっかけに出来るし。今のままの自己肯定感を肯定するというか、露悪的な開き直りを肯定してくれる感じがあって、今までの自分にとっては「執着」と名付けてしまうことが居心地が良かったのです。

この時の感情がとても印象的だったのは、執着のすぐ裏側に「愛」が見え隠れせんばかりにあふれていたことをまざまざと感じたからこそのたじろぎでした。私の中にこんな感情があったのか、という驚きでもありました。

先に言葉や概念があったのか?どちらが最初にあったのかは神学論争になるのかもしれませんが、ヒトとして生きる中においては先に感情があって、それを時に応じて言語化するという流れだろうと思います。今回「執着」だろうと思っていた物が、もっと様々な側面を見せてくれたことで、実はかえってその感情を手放しがたくなってしまっています。この文章を書きながらも、新たな側面を見せてくれて、う、まだここから受取る物があるのか。。とプチ葛藤中。

たった一つの小さな紙切れでしたが、私の中にある感情へのレッテル貼りや前例踏襲のルーティン、そして、変化への抵抗や葛藤を抱えている事への安堵感など、様々な側面を浮上させてくれました。もうゴミ箱に捨てちゃったけど、そして、もうゴミの日を経て焼却場に運ばれていっただろうけれど、きっかけをくれた紙とそこに付随して浮かび上がってきた感情をもう少し慈しんで行こうと思います。

前回の投稿で封印に貴賤無し、という言葉を書いたのですが、そこに通じる何かがあるなあと改めてかみしめ中です。
ゆりとたぬき.jpg
これからお買い物に行ってきます。みなさまもどうぞ良い8月をすごされてくださいませ。
posted by e-aprico@杏の木 at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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