4月25日に、「生きる勇気」というテーマにて、イベントを開催いたしました。開催に向けて自分を見つめることから、イベントを通して自己表現をして行くこと、そしてご参加下さった皆様との交流を含めて、沢山のギフトを頂きました。ご参加下さいました皆様、祝福やお気持を寄せて下さった皆様、ありがとうございました。
4月は、新しい畑を借りたこともあって、沢山の時間を屋外で過ごしました。自分で計画して、自分で決断する、タネを蒔くための準備とはいえ、これが何かの役に立つのだろうか?と自問自答しながらの作業でした。
一つの場所には、一つの草しか生えてきません。私にも、緑の指があったらなぁと思いながら、今のこの作業に、どんな意味があるのだろうか、と何度も心細さを噛みしめながら、日暮れ近くまで作業をする日も多かったです。
生きること、そのこと自体の豊かさを綴った文章、携帯に送信して、繰り返し読み返しているのですが、その文章の煌めきに惹かれながらも、私が「生きること」が、輝きや創造に繋がるとはなかなか思えず、そうあったらいいな、の祈りのような願望が心の底の方に漂っていました。
自分自身にしか癒やせない部分が、私にとっては大切に思える。そう、私の中でつぶやいていても、他者への祈りの尊さを伝える文章を繰り返し目にする機会もあり、他への祈りが尊いように、私にとっては自分を癒やすことがとても大切なのだ、と、肩身の狭さを感じてしまう自分自身に、癒やしを届けておりました。
一斉ワークを終えた後も、しばらく、「生きる勇気」という部分に、なかなか向き合えずに下りました。生きる勇気に向き合えないって、どれだけ臆病なのか、という感じですが、小さくささやくように、「ココにいていいよ」と呼びかけ続ける感じでした。
29日にステキな一斉ワークを、そして、30日には、タロットセッションを受取らせていただいて、自分自身の「生きる勇気」に、もう一度向合う元気が出てきました。
女性エッセイのアンソロジーシリーズが、とても心の支えになったので、数冊読んでいるのですが、先日喚んだのは「須賀敦子」さんのエッセイでした。その中の評論家チェーザレ・Gさんとユルスナールさんの交流を描いた文章の中で、人生を生きる実感を言葉に綴ってゆく、その美しいプロセスが書かれていて、須賀さんが追い求めていた部分と、私が悩んでいた部分とにうっすらと共通項があるように思えてきました。
私の中にある「生きる勇気」に、別の角度から光を当てていただいたようで、今、私が、ココにある、そのこと自体を肯定するヒントを頂いたように思えたのでした。
臆病で、恐がりで、心配性の私でも、勇気をかき集めて今日も生きている。毎瞬が続いていることが、本当は奇跡の連続であるはずなのに、その事を、つい忘れてしまいます。忘れたら、思い出せば良いのですね。今も、目の前で起きている、奇跡のような瞬間に立ち会えていること、その輝きに心を開いてゆけるといいなぁと思っています。

最後までお読み下さり、ありがとうございました。
*20201年5月9日、お名前を間違えて記載していましたので、訂正いたしました。