2021年05月27日

鈍く、そして、ほのかで、ささやかな

最近、いくつか、思い込みと、心の底に押し込められた願望を手放してゆきました。手に入らないものとして、あきらめたのでは無く、そこを目指して、努力してゆくことが、徒労に終わりそうな気がして、目標とすること、そして、願望としてしがみつくことを手放した、という感じでしょうか。

モノの断捨離は、苦手な私ですが、思い込みを自覚的に手放してゆくことの心地よさ、じわじわと、ひたひたと、喜びが染みこんで行くようで、心の中での風通しの良さを感じています。

ジワジワとした心地よさが、しみ出してくる少し前、期間限定のSNSにて、短い書き込みをしたのでした。思いつくままに、5分位でさらっと書いた文章なのですが、『今私が行っている、ささやかな自己肯定を、肯定してゆきます(大意)』というような、内容でした。

『小さな私』という部分が、強調されているので、萎縮している、と、捉える方もあるだろうなぁと思いつつ、正直な思いを、断片とは言え文章化できて、ホッとしていました。

そういえば、私はエネルギーワーカーでもあるのでした。他の方のエネルギーを扱うことは、相手の方の許可が必要かもしれませんが、私自身のエネルギーを、観察して、ケアして行くことには、遠慮はいらないのですよね。時折思い返しては、その書き込みをしたときの自分自身のエネルギーを感じておりました。

さらっと、推敲無く書いた文章なので、至らない部分や誤解を生みかねない表現もあるかもしれません。でもその時の私が、何を見つめて、何を表現しようとしていたのか、繰り返し感じてみることで、伝わってくるモノがありました。

タイトルにもした『鈍く、そして、ほのかで、ささやかな』というのは、私が心の底にたどり着きたいと願う、その中から出てきた光のようなモノで、その光の源が、私自身のコアに近い部分から放たれていること、私の肉体に近い階層での試行錯誤の基板となっている部分を表現しているように感じられたのでした。

今までも、内省を含め、自分を見つめる、自分自身の光を、自分自身のエネルギーを感じる努力は、続けてきました。とても信頼する方から、『これがなみさんの光だよ』と、繰り返しご指摘頂いても、そうなのかなぁと首をひねる場面が多かったです。喜びとは逆に、素直に受け入れられない自分自身に対して、悲しみが募る場面も多かったのでした。

それでも、自分を知りたい、自分を感じてみたい、と願い続けて10年余り。ようやく、井戸の底の方にあった私自身の片鱗に、たどり着けたような気がします。

鈍くて、ささやかな光。いやーこれは見つけにくい。繰り返しこの部分を感じることで、今は以前より楽に、この部分に到達できるようになりました。心にも獣道?ではないけれど、何度か踏みしめることで、道が出来るのかもしれませんね。

余りに『生』な感情過ぎて、私の不器用な言語表現と相まって、伝わりにくいし、伝え難い。誤解されても仕方が無いです。今その文章をコピペしても、うまくお伝えできないと思いますので、控えさせて頂きます。

でも、この部分から生まれうる何かがある。そして、この部分を生きることで、また新たな表現を生み出してゆける。そのことは私自身にとって、小さな、でも嬉しい変化として、私の胸に届いています。小さな喜びが、私の中でふるえています。高く高揚する喜びもステキですが、じんわり染み渡る静かな喜びを、今この瞬間も噛みしめています。

自分自身を、愛を持って見つめること、そして、臆せず自分自身を表現して行くこと、これからも続けてゆきたいなぁと思った出来事でした。
白い花
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
posted by e-aprico@杏の木 at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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