最近の、『言っちゃったなぁ』は、一つ前のブログで書いた、『ライトワークを意識的に行うことはほとんど無い(大意)』という言及です。ごめんなさい、少しだけやってます。でも、それを『やってます』といって良いモノなのか、自分の中で、確証が持てずにいます。
今日も畑から畑へと、農具を抱えて一人歩いているときに、どうして、今自分がしているライトワークを、軽んじてしまうのだろう、と考えていました。
キャンセル以外の『お金を頂かない無償のライトワーク』を行っていること、『大地に対してのワークを行っていること』、『おそらく宇宙的なワークも行っていること』。その部分を、きちんと見つめたくなくて、『ささやかな』という言葉を隠れ蓑にして、行き過ぎた謙遜をしている私自身がいるようでした。
そして、他の方のなさっているライトワークと比較して、どこかで『私なんて』と、自己卑下する癖がついているようです。
ライトワークの種類によっては、○○を行っています、と告知することが大切だったりするようで、そのことによって、浄化されてゆくプロセスもあるようです。もちろん、告知するようなライトワークを行っている方は、それ以外の部分でも沢山のライトワークを行っていらっしゃる方が多いと感じています。沢山の方に、間接的にでも目に触れる機会があることで、色々大変なご苦労がおありかと思いますが、あえてその役割を生きてくださる方々に、心から感謝の思いを抱いています。
今書き出してみて、表だって、ライトワークを行って下さる方への、感謝の思いが、足りていなかったことを改めて感じています。その方の命の選択として、ライトワークを行う側であることを引き受けて、その生を生きて下さっていること、今の私には及びもつかないようなご苦労もおありかと思います。その無償の愛に、感謝です。
私の側は、誰かと比較することで、自己卑下を正当化しようとしていたようです。そこまで自分を軽んじる必要が私の側には在ったようで、そうでもしないと、『攻撃』されてしまう、という恐れがあった模様。謙遜が行き過ぎて、相手を怒らせてしまうことの方が多いのに、未だにそのトラウマの部分を乗り越えるのが難しいようです。
ささやかなライトワーク、気がつくとしている、という感じで、あまりに日常的すぎて、見過ごしておりました。私なりのやり方で、コツコツ続けてきたライトワーク、その意味や役割を誰何するよりも、その役割をお手伝いさせていただける、その事の喜びにフォーカスしてみようと思います。何かの見返りを期待すること無く、ただ、虚心にお手伝いをさせていただく、ささやかだからこそ、少しだけ在る、その事の有り難さを、時折でも感じてみようと思いました。
夕食の下ごしらえをする合間に、少しだけ、と思いましたのに、何だか長くなってしまいました。
長文を最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。

ほぼ無肥料で育てた玉葱、間隔を開けて植えたからなのか、こんなに立派に育ってくれました。もちろん、5センチ弱の小さな子もちらほら。一つ一つの、それぞれの在り方が愛おしいです。