それが、今日の午後、少し気持ちが弱ってきていて、ふらふらっと、視聴ボタンを押してしまいました。
その方の動画を2本ほど視聴してみて、その方の主張と、私自身の感じ方をもう一度ゆっくりと感じてみました。
全く面識が無い方ですし、その方の才能も熱意も、とてもステキなのに、どうして、私の中に、ざらりとした物が残ってしまうのか。あらためて感じてみたところ、私が、皆と同じになりたい、と願うときに、こんな種類の動画に惹かれてしまうのだなぁと思ったのでした。
誰かと私が、少しだけ違う。そんな当たり前のことを、目の前に突きつけられたときに、「違い」の側が、気に掛かってしまって、萎縮してしまうことがあります。自分のそんな性質のことを、気むずかしいとか、偏屈とか、悲しく思うこともしばしばでした。特に、人気のコンテンツが、しっくりこなかったりするときに、へそ曲がりだなぁと、時にさみしさを感じてしまったり。
多分その方と私に、ほんの少し似ている部分もあるからこそ、こんなに気に掛かるのだろうと思います。でも、私がほんのり「違和感」として感じてしまった部分は、極些細にも見える部分ですが、その小さな違いが、私にとって、とても大切な部分であること、今回の考察から、あらためて学ぶことができました。
そして、私にとって、大切な「違和感」、であるのだから、その部分を受け入れられないことを、瑕疵のように感じて、責めてしまうのは、もう手放したいです。今すぐに、全てを変えて行くのは無理でも、手放したいと願えたことが、ほんの少し嬉しかったのでした。
動画をアップして下さった方の、お姿や感じ方を尊重するように、私自身がその作品を見聞きして感じた感情も、些細なことだと、決めつけてしまわずに、今まで以上に、大切にして行きたらと思います。

最近カフェオレとは、ご無沙汰です。以前のお写真にて失礼いたします。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。